ある音楽を聞いている時、わたしたちは音楽を「信じて」いるのでしょうか。
「信じるとか信じないとか、そういうものじゃない」というのが、普通の答えでしょう。
しかしそこを敢えて「信じる」と言ってみるなら、それはどのような意味の言葉になるでしょうか。「わたしは音楽を信じる」。
多分、この時の(意味不明瞭な)「信じる」が、一番「宗教を信じる」ことに近いです。
宗教について懐疑的であったり、単に無知な人たちは、「こんな馬鹿げたことをなぜ信じるのか」と言います。では翻って、彼らが「信じる」ものは何でしょうか。検証された確実なものでしょうか。それが検証されて確実であるなら、なぜ敢えて「信じる」必要があるのでしょう。それは端的に事実(とされている)なのですから、敢えて「信じる」などと言う必要はないでしょう。
「信じる」というアクションは、基本的にいつも馬鹿げています。馬鹿げていないものは、わざわざ「信じ」たりする必要はありません。
ただしそれは、「検証されたもの」を事実と受け止めるかのように、「検証されていないもの」あるいは「偽と検証されたもの」を事実と受け止める、ということではありません。その軸の中に「信じる」はないのです。
音楽は常に空から降ってきて、空から降ってきたものをわたしは信じています。
そして楽器を演奏する者が、個々の指の筋肉の使い方を意識などしないように、信じている時にわたしが要するに何をやっているのか、わたしは知りません。それを確かめることは可能でしょうが、その時には指がこわばって、音楽は死に、もう別のものになっているでしょう。
音楽と信仰 http://arabic.kharuuf.net/archives/1238世の中的には、少なくとも建前上、「考えをキチンと表現して伝える」ことは「良いこと」とされています。実際、これらが大事な場面というも沢山あるでしょう。
また、何かを書き綴って(あるいは別の方法で)表現出来た時、さらにそれが他人に理解された時の悦びというのは、素晴らしいものです。「書く」ことに格別にひっかかってきた(ひっかかってしまった)人間としては、非常によく分かります。
しかし、この悦びというのが曲者です。考え(あるいは別のもの)を「表現する」とか「伝える」ことの快感というのは、麻薬のようなものです。
別に麻薬が絶対悪だと言うつもりはありません。時にはそういう快楽があっても良いでしょう。お祭り騒ぎだってたまにはしたいです。
しかし、年中お祭りをやっていては世の中回りません。お祭りにそこまでの需要はありませんし、仮にお祭り専任という人がいるにしても、人口千人あたり一人くらいで沢山でしょう。
要するにこの麻薬というものは、せいぜいのところその程度の位置付けに過ぎないのですが、一旦中毒になってしまうと、年がら年中お祭りをしたくてたまらなくなり、しかもそれが意義深いことだと思い込んでしまいます。
世の中のほとんどの人々は、建前とは異なり、ほとんど自分の考えなどキチンと伝えていません。そもそもまとまった考えがない場合も多いですし、言わない方が身のためのことはもっと多いですし、伝えようにも表現するスキルがなく、なおかつそれで格別困りもしない、ということも沢山あります。これが重要になるのは、結構限られた局面だけの話で、それはお祭りくらいの頻度でしかありません。
もちろん、言いたいことなどないのに発言を求められる、何か出さないといけない、という場面も、建前の関係上色々とあります。ですから、普通の人は、当たり障りのないどこかで聞いたようなことを言っておくのです。ここで本当に表現してしまったりすると、ほとんどの場合はロクな結果になりません。たまに大ヒットして弾けることもありますが、これもお祭りレベルです。
余計なことを言ったり書いたり踊ったりしないでも、ほとんどの人は立派に生きていけますし、そういう人生も大いに意義があります。むしろ真っ当です。
伝える中毒 http://arabic.kharuuf.net/archives/12761. 外で誰かと一緒にいる時は、次の用途以外ではスマホを使わない
電話をかけなければならない時
一緒にいる人にも必要な情報を調べる時(例:レストランまでの道のりを調べる)
あらかじめ設定していた動作に対応する時(例:アラームを止める)
LH質問箱:スマホ中毒から抜け出して、上手にスマホと付き合うには?言いわけをしない
どんな環境で仕事をしていようが、どこにいようが、誰と何をしていようが、そんなことはクライアントには全く関係ありません。たとえ仕事が上手くいかなくても、それに対する言いわけは誰も聞いてくれません。仕事が上手くいかないのは自分の能力が足りないからです。
自分の能力を高めるために努力するのは当たり前のことであり、誰もそんなことを褒めてはくれないでしょう。能力を高めるための努力は、単純に自分を守るためなのです。それができないのであれば、行き止まりはすぐ目の前。そして、仕事が上手くいっても誰も褒めてはくれないでしょう。仕事が上手くいかなかった場合、クライアントは二度と仕事をくれません。言いわけに耳を貸してくれる人がいるということは、考えようによっては幸せな環境なのです。
〆切が守れる
〆切などの約束事が守れないのは論外です。電車が遅れようと、雨が降ろうと雪が降ろうと槍が降ろうと、約束事を守れないのであれば、仕事を打ち切られても何の文句も言えないと思っていないと、ノマドは成り立ちません。他の面での拘束がない分、絶対に守るべきところというのは存在します。
ある程度以上のお金を稼ぐ
ノマドを自称するのであれば、どのくらいのお金が必要なのか、どのくらい働きたいと思っているのか、働いている以外の時間を使って何がしたいのか、というのは明確にしておきましょう。一番やってはいけないのが、お金に困った挙げ句、業界の水準よりも安い単価で仕事を受けてしまうことです。これは同業者および他のノマドワーカーにも悪影響を及ぼします。例えば翻訳業界で言えば、実家で暮らしていて、特にお金を稼がなくても死活問題ではなく、翻訳ってなんだかちょっとかっこいいし、趣味でちょっと翻訳がやりたいので安くてもいい、と思っているような人が業界全体の価格設定に与える影響は思いのほか大きいです。ノマドを語る以上、自立してある程度以上の額を稼いでください。
ノマドワーカーがクールだなんて幻想だ! というお話30年で学んだ30の真実(抜粋)
01.あなたが誰かを追い求めることを諦めてはいけない。例え叶わなくても、追い求めたドラマはあなたの経験となり、糧となる。
04.何か行動を起こすことは、たとえそれが間違っていても、何もしないことより10倍素晴らしい。
06.どんな人でも「愛」「幸福」「より良い未来への希望」を求めている。価値観は違えど人間の基本はみな同じ。気づくか気づかないかは、あなた次第。
07.あなたはたくさんのモノを持っていて、あなたはたくさんのモノを与えることが出来る。あなたがたくさんのモノを与えると、あなたは自由を得る。
08.もしあなたが完璧な人を探しているなら、あなたはおそらく、あなたの幸せを完璧に作ることができる不完全な人を見逃してしまう。
09.物事の関係性は賢明に選択する必要がある。悪い会社、ブラック企業に存在するよりも一人でいるほうが良い。急ぐ必要はない。
11.どんなにカッコイイ人でも、どんなに賢い人でも、どんなにカリスマ性のある人でも、あなたになることは出来ない。
14.人間は誰もがミスをします。あなたが他人のミスを許すことができない場合、他人があなたのミスを許すことを期待してはいけない。
18.誰も完璧ではない。誰もが完璧に値しない。あなたも彼らも、問題がある。だからそうやって他人を軽蔑することをしないで。
20.私が知っている「幸せな人々」の特徴は、新しいアイディアや企業への先入観を持たず、常に良い音楽・良い本・良い写真・質の良い会話が大好き。そして彼らは他人の幸福の原因ともなっている。
24.あなたは、あなたが上手くいかなかったことよりも、しなかった事を必ず後悔する。
25.人生における最大の課題の1つは、あなたが「自分自身が他人からどう評価されていること」を気にすること。気にしすぎたらいけない。
26.ささいなことを楽しもう。一日を振り返ると、「ささいなことでも、実は非常に大きなものだった」という発見や可能性がある。
27.あなたが目の前の人を笑顔に変えられれば、あなたは世界を変えることもできる。
28.あなたが出会う全ての人・モノなど、全てが人生の教訓。あなたは常にまわりの全ての物事からレッスンを受けている。
29.全ての物事をポジティブに受け止める訓練から始めよう。それが素晴らしい人生の第一歩。
30年で学んだ30の真実Onigiri.blog: 120131_52_フリーランスとか大手とか言ってないで「ソニーの開発18か条」を今こそ振り返ってみよう!
昨日、人生の先輩に当たるお二人と恵比寿にて焼き鳥&ビール♪
メンターの大切さ、ソーシャル〜な話、新卒の就職活動、大手企業の話、色々とお話をする中で「SONYの開発18か条」というものの存在を教えて貰いました。自分にとってもの凄く示唆に富んでいたので皆さんにもシェアさせて頂きます。
これは、ウォークマンの開発に携わった大曽根さんという方のチームで唱えられていたものだそうです(出井さんCEO就任前に)。まずはご覧下さい。
ソニーの『開発18か条』第1条:客の欲しがっているものではなく客のためになるものをつくれ
第2条:客の目線ではなく自分の目線でモノをつくれ
…
アーテイストとして生きること 宮島達男
1.この国でアーティストがどう生きるべきかリアルに考える。はっきり言って、絵で飯は喰えない。皆分かっているのに、その幻想の旗を降ろさない。なぜか。
2.幻想の原因は美大というよりも、美大の先生方がその幻想を信じているからでしょう。そして、その夢を若い連中に語る。まるで、それを捨ててしまったら、アーテイストではないと思い込んでいるからではないか。ここには、アーテイストという生き方の誤解があるように思う。
3. この幻想「プロのアーテイスト=絵で飯を喰う人」という図式は誤解ではないか。アートは職業になじまない。むしろ、アーテイストは生き方である。自分の生活は別途、自分で支え、自らの想いを納得のゆくまでカタチにし、他者へ伝えようとする人間。生き方。それは素晴らしい生き方だと思う。
4. そうした生き方と思い定めれば、自由になれる。うまいへた。評価されたされない。売れた売れない。人と比べない。楽しいから描いていた頃。そして見てくれた人に喜んでもらえたことが幸せだったあの頃。人の評価でなく、自分が良いと本当に思えるものができたときの喜び。それが本当の自由。
5. そうした生き方をした人に、ゴーギャンがいる、ルソーがいる。無数の絵描きがいる。むしろ、ピカソのように絵で喰えた人はまれ。全体の1%もいない。宝くじを当てるより難しい。そんなギャンブルのような賭けに自分のアートを翻弄されてはつまらない。
6. この生き方、絵描きに限らない。評価されるされないに関わらず、自分が良いと思える事を人と比べず追求する。そんな人はもうすでに本物のアーテイスト。そう、実は、アートは絵描きだけの専売特許ではない。誰もがアーテイストに成れる。Art in You
7.そもそも職業とは誰かのニーズがあり、そのニーズに応えて成立するもの。アートには、もともとニーズがない。自発的に想いをカタチしているだけ。だから職業となじまない。しかし、ごくまれに職業として成立してしまう者が現れる。ここが、幻想を生む原因だ。では、これを、どう考えれば良いか。
8. アートが職業として成立する。それは偶然としかいいようがない。もちろん、作品には「美の基準線」が存在する。作品として成立する最低限の質は昔から変わらずにある。努力次第でそれは手に入れられる。美大で教育するのはここ。だが、それを満たした作品が売れるかというと、そうとは限らない。
9. 偶然に作品が売れてしまうのは、時代や環境、流行など外的要因が大きい。だから、時代によって評価も変動する。たとえば、最近になって評価が高くなったフェルメール、逆にビュッフェのようなケースも。現在たまたま喰えているアーテイストもどうなるか。喰えることと質とは別次元である。
10. この「質」と向き合うことは、自分と向き合うこと。外的要因ではなく自分の努力で報われる世界。ここは裏切らない。「喰えることは偶然」と腹を決められれば、何も怖いものはなくなる。悲しいのは喰えないことではなく、アーテイストとしての目的を失うこと。
11. 目的を失うと、すべてまわりの責任にする。「環境が悪い」「日本の文化度が低い」「社会が悪い」「マーケットが悪い」・・そして、戦略を巡らし、外堀から埋めようとする。これではいつまでたっても自分の「質」と向き合えず、一流のアーテイストとして生きられない。
12. もちろん、社会構造の問題もあるので、私自身、「文化芸術基本法」の制定や、「文化防衛戦略」への答申、税制の改革など。日本の構造改革にも関わってきた。しかし、それでもアーテイストの生き方の問題は依然として解決しない。
13.むしろ、ア-テイストな生き方をする人が増えてくれば日本の構造も変わる。なぜなら、アートには人を思いやる想像力と、出口の見えない問題を突破する創造力の2つが獲得できるから。自分と向き合う感性を持った人がたくさん出れば、日本のカタチはすぐに変わるのは当然。
14.だから、すべての人にアーテイストな生き方が必要。「アーテイスト=絵で飯を喰う」という幻想が、すべての人のアート教育の機会を奪う。音楽、踊り、建築、書、どんな分野でも、人間を人間たらしめる根本の教育。それがアート教育。矮小な幻想を常識と勘違いしてはならない。
15.Art in You. こうしてアーテイストは、たかだか150年の小さな「名詞」の殻から解放され、悠久の大きな「形容詞」に変容する。そして、アーテイストは幻想でなく、リアルな「生きざま」として刻印される。
たとえば、仕事で使うタスク管理システムをあなたが自分で設計したとしましょう。それは機能的には申し分ないのですが、操作がかなり複雑で1日に数時間はかかってしまいます。そこに同等の機能を持ち、かつ操作に時間が全くかからないWEBアプリが登場しました。これはあなたにとって朗報なはずです。
ところが、あなたはあくまで自分が設計したタスク管理システムに執着することでしょう。なぜなら、それを設計するのにあまりに多くの時間を投資したからです。きっとあなたは、システムを設計するのに使った時間よりも多くの時間を、毎日の複雑な操作で浪費してしまうでしょう。そして、あなたは自分にこう言い聞かせるのです。自分にはこのシステムが合っているのだ、このシステムが好きなのだと。こうしてあなたは、決して良いとは言えないものへ執着する自分を正当化します。
仕事でやりがちな愚かな行為ワースト5
2. 自分の考えや方法に執着してしまう(たとえそれが悪いものでも)
http://www.lifehacker.jp/2011/10/111025stupid-office-dachis.html
(出典: bubbleno7)
SHURE SM58 MADE IN USA
ポルシェロゴのものは1980年ごろ購入。一番安いお店でも、当時、3万円はした!\(◎o◎)/!
もう一方のものは1984年ごろ購入。
現行のものと異なって、カートリッジもUSA製。幾人かのライブハウスのPAの方々に「音圧が違いますね」といわれた事がある。
気持ちがまいってる人に、心の強い人が正論言うのは、攻撃みたいで見ていてつらい。
あなたが平気でできることも、ほかの人は勇気ふりしぼらないとできないかもです。
(via maako)Eiji Sakai blog (JA): Google 訪問
私の知人が Google で働いているので、彼を尋ねて Google の本社オフィス(彼らは大学風にキャンパスと呼んでいる)を訪れた。Mountain View の街に Google の広大なキャンパスが広がっていて、車で移動しないと行き来が不便なくらいである。
Google といえば、検索サービスと Gmail…
果たして、それは「本当に」親切なのだろうか?
A雄とB夫の共通の知人であるD男から「暑気払い」的飲み会のお誘いがあって。なんでも、同窓会的のりで、随分の人数が集まるらしい。D男はその幹事。どちらかというとA雄とD男は親友。
お誘いのメールはA雄、B夫と僕にも回ってきた。A雄、B夫、C子、と僕は、最近一緒に活動している。D男のメールは「誰でも誘って良い!」的にメールだったし、C子とD男はメールアドレスは交換した事はないけれど少し面識があったので、「D男からこのようなメールが来ているよ!」と、A男、B夫、C子に転送したら、C子は「私も参加したい!」と返事が来た。
その後、お店の予約の都合上、参加者を確定したいので参加の意思表明の確認・締切の日程を通知するメールがD男から来た。それも、三人に転送した。多分、A男、B夫ともに、それぞれ、直接、D男からのメールも受け取っている。
で、意思表明の締切日に、A雄、B夫、C子、と僕は会合があったので、その時にも意志確認をした。A雄とB夫は仕事の都合上、非参加。C子はA男もB夫も「参加する」と考えていたとのこと。でも、「行きます」と言ったので、D男にはその旨回答した。
二日後、また、A雄、B夫、C子、と僕で会合。その時に、「A雄もB夫も来るもんだと思っていたのに。なんか、知らない人達ばかりなら、行きたくないかな。」とC子がいい始めた。A雄とB夫は仕事の都合上、非参加という事は、二日前に判明していて、それを踏まえたうえで「行きます」を回答していたはず。
A雄は「毎日、D男には会っているから、僕からお断りのお話しをしておくよ。」と発言。うーん、そうかあ?
どうやら、A雄とC子は「締め切り後でも負担なく断れる」と考えているようで。そして、幹事にどんな負担が生じるかを考慮できていないようで。
多分、A雄はC子に対する親切心から、発した言葉なんだろう。で、これが通れば、C子も安心かも。だけれど、D男はどうなるんだろうね?
D男は既に予算確定し、人数も申し込んであるお店に「締め切り後ですが、申し訳ない。人数の変更を・・・。」と電話することになる。
人数の減る方向への変更は受け入れられるだろう。しかし、金額の変更は・・・、ならないだろうね。でも参加者一人が払う金額は決定しているので、足りなくなる金額はD男負担になる可能性が高い。
A雄とD男は親友に近い間柄だから、A雄の頼みなら、多少の無理があったとしても、D男は受け入れるだろう。内心、「えー!そりゃとんでもないよ。」と思っていても。つまり、A雄は気づいているかどうか知らないが、D男にとって断れない「頼み」というお話。
多分、そこまでA雄は考えていないんだろう。ただ、「D男と僕の間柄だから、D男は聞きいれてくれるよ」程度は考えているから、「僕からお断りのお話しをしておくよ。」の発言になるのだろう。
後先をあまり考慮しなかったC子の「参加表明」も無責任で困ることだけれど、親友に対して「無理な頼みとなってしまうことを無理とは感じていない」A雄の考え方も「まずいね」と感じた次第。
A雄の行為はC子にとっては「親切」なんだろうけれど、D男にとっては負担の大きい「とんでもない話」だ。そんなことが考慮できないだけ、彼らはまだ、「子供」なんだろう。
大人っていうのは、単なる飲み会の約束にも「責任」が生じると思うんだ。
結婚披露宴会場予約やリハーサルスタジオ予約、ライブハウスブッキング、旅行日程など、「締め切り後のキャンセル」は費用全額負担、ということが多いが、友達の考案した飲み会だと「キャンセル料金は要らない、取るほうが変!」とでも考える人はどの程度なのかな?
心のキャンセル料金はとてつもなく大きいぞ!
まあ、親友ではない人には迷惑はかけられないが、親友だからこそ「迷惑」をかけられる仲、というのもあるだろう。
だとしても、この「件」が「それ」に当てはまるような「親友だからこそ、恥をしのんで無理なお願いをしてみる」に該当するほど、重大な件とは、とても思えないが。

